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知らなくても困らぬ役に立たない情報が満載
都ビル解体その6から
2009年12月30日
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まだ松杭が残ってるかと期待したのだが、流石工程表通りに埋め戻し整地を済ませ少々の雑材を残して新年を迎えるだけの状況になっていた。
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2010年寅年、1月中は然したる変化は無く‥
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2月7日に行ってみると、
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歩道の補修も済み、
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真新しい地境杭やピンが設置されていた。
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右奥にも真新しい杭が二本打たれていた。
miyako_59 隣地との境界がしっかり決まった所で「都ビル」の存在は完全に消え去ったと言う事になる。
 この土地に新しい価値が生まれたのだ。


miyako_60 20歳になって間もない頃の私がこのビルに注目してから四半世紀、そこから完全に解体されるまでを見届けられたのは本当に幸運だったと思う。
 自分の作文センスの都合7回に分けてのレポートもこれにて終わり。
 これからの未来、東京の神田須田町に存在した「都ビル」を検索した人たちが、満足できる解体レポートになれば嬉しい限りです。
都ビル解体その5から
写真を掲載して無い日にも暇を見つけては様子を見に行っていたのだが、工事現場のオッサンモードの視線を感じてか、古いビルの解体に興味のあるような人から良く声を掛けられた。
ネットの掲示板などだけの情報収集と違い、表に出せない様な情報をリアルタイムで得られるので時間を忘れて話し込む事も多いのだ。
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2009年12月19日早朝、この日は仕事先が近かったので寄り道してみた。
miyako_41 朝には一階基礎立ち上がり部の壁が残っていたのだが、

仕事を終えて夕方通りかかると、その両側共完全に噛み砕かれてしまっていた。
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miyako_43 翌20日は新しく購入したコンデジ、キヤノンG11の試し撮りを兼ねて日中の様子を見に行った。

奥の地下階解体も終わったようだ。
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2009年12月26日、世の中がクリスマスに浮かれ捲くった翌日に見に行くと、
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今や懐かしい木電柱の様な丸太がゴロゴロ並ぶ。
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それはタダの丸太ではない。80年間都ビルを土中で支え続けた松杭だ。
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敷地の奥には長いままの杭が転がっていたが、手前側には搬出用に短く切断された状態で山積みになっていた。
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物言わず寝転がっているが、100年以上の昔に何処か誰も知らない土地で芽吹いた松の木。
建材用として伐採されてから、昭和になって間もない東京までどんな運搬経路でここに来たのだろう。
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泥にまみれているが丁寧に洗えば美しい木肌を見せるはず。ただ現状は産業廃棄物でしかないのだが。
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その7
都ビル解体その4から
取材日、2009年11月7日と15日
正面靖国通りから見るとすっかり更地に見えるのだが、
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1階の基礎立ち上がりを残して、敷地奥の地下階の解体作業をしている様だった。
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miyako_34 懐かしの丸棒鉄筋。

miyako_35 玄関脇の緑色のタイル。こんな逸品この世じゃ手に入りませんよ。

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miyako_39 上述の通り、この2週にわたって手前外観の変化は殆ど無いのだが‥

miyako_40 地下階の解体作業に相当手間を掛けている様だ。


その6
都ビル解体その3から

miyako_ex2 すぐ下の画像を見て私が今回の取材の為にやった行為と思われるかも知れませんが、2009年9月27日夕方の取材当時既にこの様な状態になっていました。
 私は興味本位で反社会的な器物破損行為は絶対にしません。

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2009年9月27日の夕方、様子を見に行くと搬出口のシートに穴が開いていた。
miyako_23 角の尖った廃材をぶつけるとこの様な穴が開く事もある。
 特に塞ごうとする様子もなかったので、カメラのレンズを向けさせてもらった。

床の一部に穴を開け、上部の廃材を下に落として搬出する今風のやりかただ。
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穴を開けた床スラブにバタ角をかませサポートで支えている。上からコンクリガラを落とした時の衝撃に耐えるような配慮だろう。
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1960年代頃までの床仕上げによく見られた目地。建物の壁に対して45°に模様が入れてある。
私の地元鉄道である西武線の駅ホームでも敷石をこの様な配置にしていた。
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2009年10月4日
小さな重機が「どんなもんだい」と言わんばかりに瓦礫の上にふんぞり返っていた。
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80年真っ直ぐ頑張っていた鉄筋もクシャクシャに丸まっている。
噛み砕かれた床や壁もセメントが効かなくなっているのか、コンクリート片と言うより砂礫と言う感じだ。
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すっかり小さくなってしまった。
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その5
都ビル解体その2から

miyako_ex1 このエントリーでの撮影は公道から見える範囲で障害物の無い部分を選んで行いました。
 見方によれば盗撮と言われるかも知れませんが、敷地内への侵入はしてない事と解体直前の無人部分であることをご理解いただければと思います。

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この当時使用していたカメラはCANONのG7というコンパクトデジカメ。
レンズ繰り出しの構造上CCDに埃が付着しやすい事が有名で扱いには神経を使っていたが、このチャンスを逃したら最後と思い地面に雑誌を敷き埃香る風が吹き出す隙間にカメラを置いてシャッターボタンを押し捲った。
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建設当時の天井照明は丸いグローブに白熱球だったのだろうか。
左官工事で丁寧に表現された廻り縁を見ると、この室内に丸太の足場を組みその上で手際よい鏝捌きをみせる職人の姿が目に浮かぶのだ。

その4
都ビル解体その1から

miyako_07 2009年小暑の頃、遂にその日がやってきた。
 毎日見ていた訳ではないが、シャッターを下ろしたまま十数年。
 バブル期の地上げ、西暦2000年前後の建て替えラッシュを乗り越え、この年代のビルにしては本当に良く残ってこられたと思う。

miyako_08 意外だったのはこのビルに地下階が有った事と、アスベストを全く使用してなかった事。
 戦後何らかの改修工事をすれば大抵アスベスト含有建材を使用してる物だが、建設当時のまま淡々と使用されてきたと言うことか?

miyako_09 解体工事は8月1日からとなっていたが、8月中は画像の通りガス工事(配管の切り離しか?)など外部の変化が少しあった程度で、さして雰囲気に変わりは無かった。


80年前に仮枠を固定する為に使ったナマシ番線の切れ端。今で言うセパレーター、Pコン、ホームタイの3役を担ってコンクリ打ちの時壁の内外の仮枠が膨らまないように固定したのだ。
 ポンプで生コンを送らなかった時代なので、ホッパの分だけの打ち継ぎ跡がハッキリ残っている。
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当時の施工を批評したくないが、鉄筋の位置がずれて仮枠に接触し露出してしまった物。
でも昔の鉄らしく良い具合の錆で納まっている。
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私の見た仮枠の残骸は、画像の辺りに数枚ぶら下っていた。
現在のような一枚板の枠でなく細い板を何枚か並べて枠にしていたので、スノコの様な模様になっている。
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これは隣のマンション建設時に切断したようだ。
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miyako_14 2009年8月末
 今まで秋葉原に遊びに行く度わざわざこのビルの様子を確認していたのだけど、この建ち姿を見られるのもこれが最後だろう。
 この先建設業界にどんな新技術や施工方法、新素材が生み出されても、これと同じビルは二度と造れないであろうに。


 そもそも「都風呂」とはどんな風呂だったのか?施工方法?入浴方法?浴槽やその周辺機器の構造?
 私自身の興味もあって、建築施工古書や古い建築写真集を収集しているのだが、それらしい記述は見たことが無い。



2009年9月
秋晴れの下、仮囲いにスッポリ包まれてしまった都ビル。
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もうあの姿を見られないのかとガックリしてると、搬出口の下から風が強く吹き出している事に気が付いた。
10センチ程の隙間が開いているではないか。

!!

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その3